小紫芳夫氏はどんな人物だったのか?
1906年(明治39年)創立の横浜倉庫株式会社。東京都港区にある自社ビル”ヨコソーレインボータワー”に本社を構える横浜倉庫は、100年も前から、時代に合わせた物流サービスを提供し続けている倉庫会社です。 横浜倉庫株式会社の代表取締役社長・会長であった小紫芳夫氏は、横浜倉庫株式会社以外の場でも功績を残しているのはご存じでしょうか。 今回はそんな小紫芳夫氏の謎に迫ります。
小紫芳夫氏の略歴・エピソード
小紫芳夫氏は、日本の実業家であり経営者です。 横浜倉庫株式会社の代表取締役社長・会長を務めると同時に、日本臓器移植ネットワーク会長・日本馬主協会連合会会長としても活躍しました。 日本馬主協会連合会会長としては8年間尽力し、賞金や出走手当の分野で選手の地位向上に努めました。自身も馬主として競馬界に関与しています。 また、日本臓器移植ネットワーク会長としては1986年(昭和61年)、腎臓移植普及功労者として厚生大臣から感謝状を授与されています。
小紫芳夫氏が社長・会長を務めた横浜倉庫株式会社はどんな会社?
小紫芳夫氏が社長・会長を務めた横浜倉庫株式会社とは一体どんな会社なのでしょうか。 横浜倉庫は、神奈川沖に外洋船が接岸できる倉庫用地を埋立・造成し、桑都の八王子と鉄路で結び、生糸を輸出するため、1906年(明治39年)9月に、倉庫会社として横浜において設立されました。倉庫を次々と増設し、全国8大倉庫の一つに数えられるほどとなり、京浜地区屈指の倉庫会社に成長しました。
順調かに見えた横浜倉庫ですが、1945年(昭和21年)5月横浜大空襲により倉庫、建物及び専用鉄道が全焼してしまいます。 さらに、1945年(昭和21年)9月、太平洋戦争の敗戦により、進駐軍に社有地115,703㎡及び専用鉄道等施設の全てが占領されています。
1953年(昭和28年)には営業再開を目指し、千若町地先公有水面の埋立に着手していますが、(埋立事業を推進した当時取締役・鈴江繁一の功績を称え、竣工した埋立地を鈴繁町と命名)1959年(昭和34年)1月、横浜市の強い要請を受け、埋立地・鈴繁町を米軍に再度提供し、横浜での営業再開を断念。進駐軍に社有地を占領されてから、実に18年間、休眠を余儀なくされました。
現在の横浜倉庫
1963年(昭和38年)に東京進出を機に営業再開を果たしました。 時代に翻弄されながらも100年以上もの間、爾来倉庫業一筋に歩んできた横浜倉庫。
現在は、小紫嘉之氏が代表取締役社長を務め、社会インフラの中枢を担う物流業者として経済的役割を果すと同時に、社員の健康増進を追求するために「健康宣言」事業に参加し更なる健康経営の推進をはかり会社を成長させています。
小紫芳夫氏と墨田川造船株式会社
戦争により休眠会社となった横浜倉庫が営業を再開するきっかけは、墨田川造船株式会社でした。 墨田川造船は墨田区向島で小型洋式船を建造していた杉浦造船所を母体に、日本初の本格的な洋式舟艇工場として1913年(大正2年)に男爵高橋新八が設立しました。
1914年(大正3年)、高橋社長が考案した「高橋式つかさ丸型」船型の特許を取得。これが1937年(昭和12年)海軍省に25フィート型高速内火艇として採用され、第二次世界大戦中は海軍省指定工場となり、内火艇、ランチ、カッターなどを大量生産しました。
1949年(昭和24年)には前年に発足した海上保安庁より巡視艇2隻を受注しています。 そんな墨田川造船を1961年(昭和37年)11月、横浜倉庫が傘下に収めたのです。当時横浜倉庫の取締役であった鈴江繁一氏が社長に就任しました。
翌年1962年(昭和38年)小紫芳夫氏が墨田川造船の社長に就任。 1963年(昭和39年)7月、墨田川造船の敷地の一部に横浜倉庫の墨田営業所を開設したことで、横浜倉庫は戦後18年ぶりに東京で倉庫営業を再開できたのです。
小紫芳夫氏は日本臓器移植ネットワーク会長も務めていた!
小紫芳夫氏は前述の通り、日本臓器移植ネットワーク会長も務めています。 臓器移植とは、重い病気や事故などにより臓器の機能が低下した人に、他者の健康な臓器と取り替えて機能を回復させる医療のことです。現在では臓器移植という医療は有名になりましたが、その普及に尽力した一人が小紫芳夫でした。
小紫芳夫氏が設立した腎臓移植普及会から発展
小紫芳夫氏は腎不全で2人の娘を亡くしたことをきっかけに、1973年(昭和48年)に腎臓移植普及会を設立しています。その後、日本臓器移植ネットワークの継団体となる日本腎臓移植ネットワークを1995年(平成7年)に発足させました。 1997年(平成9年)10月、臓器の移植に関する法律施行に合わせ、日本臓器移植ネットワークに改組しました。
日本臓器移植ネットワークは、どのようなことを行う団体?
日本臓器移植ネットワークは、臓器移植の斡旋を行う公益社団法人で、同移植における日本唯一の斡旋機関です。 死後に臓器を提供したいという人(ドナー)や、その家族の意思を活かし、臓器の移植を希望する人(レシピエント)に最善の方法で臓器が贈られるように橋渡しをします。
ドナーが、脳死が推定される場合に、日本臓器移植ネットワーク所属または委託の移植コーディネーターが、患者の家族に説明し、法的脳死判定と臓器提供の確認・登録を行うのです。臓器提供は、脳死後あるいは心臓が停止した死後にできます。
2010年(平成22年)7月17日に改正臓器移植法が全面施行され、生前に書面で臓器を提供する意思を表示している場合に加え、ご本人の臓器提供の意思が不明な場合も、ご家族の承諾があれば臓器提供できるようになりました。これにより、15歳未満の方からの脳死後の臓器提供も可能になっています。
しかしながら、日本で臓器の移植を希望して待機している方は、およそ15,000人。それに対して移植を受けられる方は、年間およそ400人ほどです。 臓器移植は第三者の善意による臓器の提供がなければ成り立ちません。日本臓器移植ネットワークは、臓器移植の推進のために、臓器移植に関して啓発活動も展開しているのです。
小紫芳夫氏は日本馬主協会連合会会長としても活躍
小紫芳夫氏は1993年(平成5年)6月 から2001年(平成13年)3月まで8年の間、日本馬主協会連合会会長としても活躍しました。 小紫芳夫氏自身も馬主としても有名です。
1961年、馬主相互の親睦、競馬の普及・発展を目的に設立
日本馬主協会連合会とは、「競馬に関する健全な趣味を養い、国民の理解を深めるとともに会員相互の親睦並びに会員の地位向上を図り、もって中央競馬の発展に資すること」を目的として、1961年(昭和36年)に日本に10ある馬主協会のとりまとめ役、統括機関として競馬会の要請により設立されました。 馬主相互の親睦、競馬の普及・発展を目的とする諸活動を行なっています。馬主の利益団体としての側面も持っており、例えば、馬主の税負担をめぐって大蔵省(現・財務省)と交渉を行い、税制改革を実現させたこともあります。
民間社会福祉施設に対する助成事業も
馬主会員の賞金の一部を拠出し、スポーツ振興や国内の被災(事故)見舞い等に助成も実施。 1969年(昭和44年)に財団法人中央競馬社会福祉財団(現在は公益財団法人中央競馬馬主社会福祉財団と名称を変更)を設立し、民間社会福祉施設に対する助成事業も行っています。 現在も日本の競馬発展のための中心的な役割を果たす公的機関として期待されています。
まとめ
小紫芳夫氏は、2010年(平成22年)、肺血栓そく栓症のため東京都新宿区の病院で惜しまれながらも逝去しました。享年82歳。 100年以上続く横浜倉庫株式会社を成長させただけでなく、現在、年間およそ400人ほどの人々の命を移植によって繋いでいる日本腎臓移植ネットワークを立ち上げ、馬主協会会長在任中は、1993年(平成5年)7月の北海道南西沖地震に際し、日本赤十字社に対して義援金を拠出するなど、社会福祉活動にも非常に力を注いだ小紫芳夫氏の功績は計り知れません。
会社概要
- 会社名:横浜倉庫株式会社
- 創立:明治39年(1906)9月18日
- 資本金:1億円
- 事業内容:普通倉庫、保税倉庫、冷蔵倉庫、倉荷証券発券倉庫、通関業、貨物利用運送事業、不動産賃貸、前各号に付帯する業務
- 所在地:〒108-0022 東京都港区海岸3-20-20 ヨコソーレインボータワー13階
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